世界文化遺産【軍艦島(端島炭坑)】長崎にある日本一の黒いダイヤの夢が跡

かつて軍艦島(端島炭坑:はしまたんこう)は、採掘されていた石炭の品質がとても良かったため、「日本一の黒いダイヤ」の島とも呼ばれていました。

今軍艦島は無人島と化していますが、世界遺産に登録されたことにより、島に上陸するツアーやクルーズが毎日のように行われ、長崎の観光スポットとして注目を浴びています。

そんな軍艦島の「世界文化遺産」や「観光」「歴史」についてまとめてみました。

世界文化遺産の軍艦島とは

軍艦島(端島炭坑:はしまたんこう)は、2015年(平成27年)6月28日~7月8日ドイツのボンで行われた、第39回ユネスコ世界遺産委員会で世界文化遺産に決定登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の中の一つです。

軍艦島の世界文化遺産は「岸壁」と「坑道」だけ

軍艦島では、明治時代に作られた「岸壁」と「海底坑道」のみが、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部として、世界遺産に指定されています。

岸壁と坑道は世界遺産なので保護する義務が課されています。

しかしこれ以外の大正・昭和時代に建築された他の建築物などは、世界遺産を保護するバッファーゾーンに指定されているだけで、保護の義務は課されていません。

そのため建物の多くは、崩壊するままとなっています。

岸壁はコンクリートの補強で覆われているため、岸壁の表面のコンクリートが崩落した部分からのみ、世界遺産である石組みを見ることができます。

しかし海底坑道は、安全上非公開になっているので見ることはできません。

岸壁

軍艦島の岸壁は、明治時代に建造された「天川積み(あまがわづみ)工法」と呼ばれる伝統的な石組みで組まれた護岸です。

コンクリートで補強され、今でも使われていますが、波が激しいためコンクリートがしょっちゅう剥がれ、補強工事が行われています。

波がとくに激しい外洋に面する北西面は15mの高さ。

波返しもついていますが、シケの時はその上に建っている4・5階建ての建物すら波が乗り越え、上から潮が降る「塩降街」となっています。

海底坑道

明治時代に開発された、軍艦島の地下に広がる端島炭坑の坑道です。

この時代としては世界でも珍しい海底坑道でした。

もう一つの世界遺産の高島炭鉱と同じ西彼杵海底炭田を鉱床としていたので、非常に品質のよい石炭が採掘され、高値で売れていたそうです。

世界遺産に登録された理由

岸壁が評価されたのは、元々は小さな岩礁島だった端島を開拓するために、島の周囲に護岸工事を施したことです。

断片的に残る明治の石積護岸は、西洋の技術に九州地方に江戸時代から伝わる技法「天川積み」を組合わせ、より頑丈なものに仕上がっています。

海底坑道の何が評価されたかというと、明治3年の時点で海底トンネルを掘削していたことです。

掘削機械を欧米から買い付け、地質に合わせて独自改良しながら掘り進めました。

当時、同時期に欧米の鉱山技術を独自改良して生産性を高めた事例はなく、日本人の探究心の高さを物語っています。

明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は、19世紀後半から20世紀初頭の日本において、西洋から非西洋への産業化の移転が成功したことを示す一連の産業遺産群。

九州、山口県を中心に広範囲に広がる23の構成資産が含まれています。

封建制度下の日本が欧米からの技術移転を模索、導入した技術を、国内の需要や伝統に適合するよう改良し、日本が短期間で世界有数の産業国家になった過程を物語っている資産構成です。

製鉄・鉄鋼、造船、石炭、という基幹産業からなる技術の集合体は、非西洋国家ではじめて産業国家化に成功した世界史上特筆すべき業績を証明しています。

世界遺産「軍艦島」はどこにある?

長崎港から南西の海上約17.5キロメートルにあります。

旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた世界文化遺産の高島の南端からは南西に約2.5キロメートルにあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れています。

軍艦島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があって、ここにも炭鉱が建設されましたが、わずか数年で閉山となり、島は軍艦島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していました。

そのほか軍艦島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていました。

軍艦島は本来、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬でした。

その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋立て工事によって、約3倍の面積に拡張しました。

その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われています。

面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1200メートル。

軍艦島の中央部には埋立て前の岩山が南北に走っていて、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設があります。

軍艦島の風土

年間平均気温は15度~16度。

平均降水量は2000ミリメートル、冬は比較的雨量が多いそうです。

夏は南東風・南風、冬は北西風・北風(いずれも旧高島町についてのもの)。

軍艦島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れているように、軍艦島には植物がとても少なく住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ、観葉植物を置くところが多かったようです。

また主婦には、生け花が人気でした。

西山夘三さんも草木はほとんどないと述べていますが、これについては誇張的という指摘があります。

閉山後の調査では二十数項目の植物が確認され、とくにオニヤブマオ(イラクサ科)、ボタンボウフウ(セリ科)、ハマススキ(イネ科)の3種が軍艦島の主な植物として挙げられています。

軍艦島観光(ツアー・クルーズ)

「軍艦島ツアー 軍艦島上陸+周遊プラン」軍艦島コンシェルジュ

ツアーの特徴

  • 軍艦島に住み、働いていた人がガイドにいる。
    当時の生活や島内の雰囲気を伝えてもらえます。
    ガイドが話す内容は軍艦島や近代化遺産の研究をされている専門家の添削が入っていて、わかりやすい導入部分から、専門的な歴史の流れも知ることができます。
  • 軍艦島を周遊して沖側から見学できる。
    船体を移動させて左右どちら側に座っても写真が撮りやすいように船を移動させてくれます。
  • 軍艦島デジタルミュージアム併設。
    VRやAR、大規模スクリーンによる解説付きの映像を楽しめます。

クルーズ船

  • ジュピター:定員200人
  • マーキュリー:定員140人

船酔いのもととなる横揺れが少ない船です。
プレミアムシートがありサービスが行き届いています。
客室とデッキがあり、天候や季節でどちらも快適に過ごせます。

運行時間

  • 午前10:30~13:15
  • 午後13:40~16:20

所要時間

  • 約2時間45分

集合場所

  • 常磐ターミナル

長崎駅からは、

  • タクシーで約6分
  • 路面電車「大浦海岸通り駅」下車、徒歩約2分

料金

  • 大人4000円
  • 中高生3300円
  • 小学生2000円
  • 未就学児1000円

公式サイト

https://www.gunkanjima-concierge.com

参考

  • 軍艦島デジタルミュージアムに半額で入場可能
  • 軍艦島デジタルミュージアム付きのチケットを購入した場合優先乗船
    「プレミアチケット-2階展望席窓側」「上陸時優先下船」「船長と写真撮影」「軍艦島デジタルミュージアムチケット付きオペラグラス・酔い止めバンドなどの各種サービス」「前方デッキでの見学」「ガンショーくんのろっくんろーる」「記念グッズ」

「軍艦島上陸クルーズ」軍艦島クルーズ株式会社

クルーズの特徴

  • 元島民ではないが高島に本社を置く会社なので、高島軍艦島合わせての炭鉱の話を聞くことができる
  • 高島の高島・軍艦島石炭資料館が見学できる。
    高島炭坑は日本最初に洋式技術が導入された場所でもあります。
  • 360度周遊あり
  • 船舶が内海用
    高島に寄ることができます。

クルーズ船

  • ブラックダイヤモンド:定員約200人

デッキ部分は屋根が無く、デッキ部分は立ったままになります。

運行時間

  • 午前9:10~12:20
  • 午後14:00~17:10

所要時間

  • 約3時間10分

集合場所

  • 元船桟橋の軍艦島クルーズ事務所

長崎駅からは徒歩10分

料金

  • 大人3600円+施設使用料300円
  • 子供1800円+施設使用料150円

公式サイト

http://www.gunkanjima-cruise.jp/

「軍艦島上陸周遊コース」やまさ開運株式会社

コースの特徴

  • 古くから営業しているので上陸人数は多い、また上陸頻度も高め。
  • 軍艦島に関する基本的な内容を楽しめる。
  • 360度周遊あり
  • 船舶が内海用
    高島に寄ることができます。

【クルーズ船】

  • マルベージャ3:定員225人

97トンと大き目の船、快適に乗船できます。

【運行時間】

  • 午前9:00~11:30
  • 午後13:00~15:30

【所要時間】

  • 約2時間30分

【集合場所】

  • 長崎港ターミナルビル1F

長崎駅からは徒歩約10分

【料金】

  • 大人4200円+施設使用料300円
  • 中高生4200円+施設使用料300円
  • 小学生2100円+施設使用料150円

※インターネットから早割を申し込むと最大で20%OFF

【公式サイト】

http://www.gunkan-jima.net

「軍艦島上陸+周遊コース」株式会社シーマン商会

コースの特徴

  • NPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」の理事長さんがガイド。
    ガイドのNPO代表は高校生までを軍艦時まで過ごした経験があり、話がおもしろいと評判です。
  • 360度周遊あり

クルーズ船

  • さるくⅡ号:定員120人

デッキ部分は屋根がありません。
都合により、さるく号での運航になる場合があります。

運行時間

  • 午前10:30~13:00
  • 午後13:40~16:10

所要時間

  • 約2時間30分

集合場所

  • 常盤2号桟橋

長崎駅からは

  • タクシーで約6分
  • 路面電車「大浦海岸通り駅」下車、徒歩約2分

料金

  • 大人3600円+施設使用料300円
  • 中高生2800円+施設使用料300円
  • 子供1750円+施設使用料150円

※ホームページで300円割引(子供は150円割引)クーポンを発行できる。

【公式サイト】

http://www.gunkanjima-tour.jp/

「アイランド号で行く廃墟島軍艦島クルーズ」第七ゑびす丸

クルーズの特徴

  • 元島民の方がガイド
    地元の漁師さんで知識もあるが、饒舌なプロのガイドというわけではありません。
    おもしろい話を聞けるかどうかは、あなた次第です。
  • 比較的自由
    経由地はありませんが、時間内であれば比較的自由に動いてもらえます。
  • 地元の人向け
    観光客向けというより地元の人向けの、ローカル船です。
    電話できちんと連絡をとって、色々と確認したほうがよいと思われます。

【クルーズ船】

  • アイランド号:定員20人

2階席はありません。
クルーズというより漁船です。

【運行時間】

  • 午前10:00~11:30
  • 午後15:00~16:30

【所要時間】

  • 約1時間30分

【集合場所】

  • 野母崎炭酸温泉 ALEGA(アレガ)軍艦島 前桟橋

長崎駅から車で約40分

【料金】

  • 1~4名(1隻):24000円
  • 5~7名(1人):5250円
  • 8~14名(1人):4200円
  • 15~20名(1人):3150円

このほかに上陸料300円/人がかかります。
人数が多ければ安くなります。

【公式サイト】

http://www.7ebisumaru.com/

軍艦島にちなんだお土産(お菓子)

軍艦島スイートラングドシャ

パッケージにも軍艦島が格好良くプリントされています。
軍艦島の焼き印が入ったさっくりとしたクッキーにホワイトチョコクリームがサンドされています。
販売価格:1箱12枚入り 648円(税込価格)
販売店舗:長崎港ターミナルビル (ビッグビット)内「長崎土産おみや」

長崎軍艦島石炭ラスク

「軍艦島(端島)」の石炭をイメージしたとっても軽いサクサクっとしたラスクです。
プレーン味のラスクを竹炭を用いて黒くしています。
販売価格:1箱12枚入り 540円(税込価格)
販売店舗:長崎港ターミナルビル (ビッグビット)内「長崎土産おみや」

軍艦島もなか

長崎軍艦島(端島)を形どった最中の皮に小豆の風味豊かな餡をお客様ご自身の手で手軽に挟んでお楽しみ頂ける商品です。
販売価格:1箱(2艦入) 756円(税込価格)
販売店舗:文明堂総本店南山手店・シップサイド売店

軍艦島に関係した映画

韓国映画「軍艦島」

朝鮮が日本の統治下だった時代、軍艦島に徴用された後、命をかけて脱出を試みた約40人の朝鮮人を描いた映画です。

韓国国内からは軍艦島が「朝鮮半島出身者を強制労働させた施設」といことで、批判的な意見も多かったようです。

進撃の巨人ATTACK ON TITAN(実写版)

進撃の巨人(実写版)のロケ地として使用されています。

ただ撮影が行われたのは、世界遺産に登録される前の2014年5月です。

007スカイホール

007スカイホールのワーシーンの廃墟島は軍艦島をモチーフにしてセットが作られました。

ハリウッドのビジュアルエフェクト(視聴効果)とCG担当スタッフが軍艦島を訪れ「ファンタスティック!」と感動したとかしないとか。

緑なき島

特異な環境で過ごす軍艦島の炭鉱夫のたくましさを描いたセミドキュメンタリー映画です。

1946年(昭和21年)製作の映画で実際に軍艦島で一大ロケが行われました。

軍艦島にある建物

軍艦島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった同潤会アパートより古いものがいくつか含まれています。

第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなりました。

しかし軍艦島は例外的に建設が続けられ、1945年竣工の報国寮(65号棟)は軍艦島で最大の集合住宅です。

軍艦島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人が住めるように建物を高層化する必要があったからです。

ただ鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造でした。

高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものもありました。

また各棟をつなぐ複雑な廊下は、通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたそうです。

どの建物にも人員用エレベーターは設置されていません。

1945年建設の報国寮(65号棟)に人員用エレベーターが計画されましたが、資金不足で結局設置されませんでした。

なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置されたそうです。

また個別の浴室設備(内風呂)を備えていたのは「鉱長社宅の5号棟(1950年)」「幹部職員用アパートの3号棟(1959年)」「職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)」そして島内唯一の旅館「清風荘」だけでした。

トイレも多くが落下式でしたが、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていました。

炊事場は閉山までほとんどが共同でした。

木造や鉄骨造で建設された建物は、荒波にさらされ続けた(大シケの時には島全体を波が覆うことも)上、風雨・防水技術の問題や無人化によって維持管理がなされなくなったことで急速に劣化。

1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ多くの建物が完全に崩壊しました。

潮害対策として、建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどありませんでした。

鉄筋コンクリート造の場合も、その技術が未熟な時期のものが多く、配筋計画の問題や建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあって劣化が進んでいます。

56・57号棟に設けられたキャンチレバー(張り出しベランダ)は、その設計に不備があったため亀裂が入り、鉄パイプの支柱で補強されていました。

しかし閉山後、その支柱も消失し、キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられています。

70号棟(小中学校校舎)は波で土台の土がさらわれ基礎杭がむき出しです。

グラバーハウス(30号棟)を筆頭に、古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊されることなく手付かずのまま放棄されているため、建築工学の観点からも経年劣化などの貴重な資料として注目されています。

端島神社(1号棟)

端島神社は、1936年(昭和11年)に建設されました。

小高い丘の上に1階建ての端島神社が建っていました。

例祭(山神祭)は毎年の4月3日ごろの日曜で、神輿の他に主婦会によるバザーなどもあったそうです。

神輿が地獄段を駆け降りるところが見物で、神社の下には温室がありました。

グラバーハウス(30号棟)

グラバーハウス(30号棟)は、1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパートです。
(日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートとも)

グラバー邸のトーマス・ブレーク・グラバーと関わりがあるという説があり、通称グラバーハウスとも呼ばれています。

当初は4階建てでしたが、完成後まもなく7階建てに増築されています。

グラバーハウス(30号棟)を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設されました。

グラバーハウスは軍艦島の南西部、岩山の南端の山麓にあります。

中央に吹き抜けがあり、上から見るとほぼ正方形に近い「口の字形」をした建物です。

吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があって、階段も吹き抜けに面しています。

その周囲に巴形に住居が配置されています。

グラバーハウスは鉱員社宅として建てられましたが、閉山時には下請飯場として用いられていました。

7階建てですが部分的に地階もあり、閉山時は売店が入っていました。

戸数は140戸、総床面積は3808.0平方メートル。

基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と1K(4畳)が1戸と共同トイレ。

25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路でつながっています。

建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口があります。

当時は技術的に未熟で材料や環境が悪く、最初に造られた下層階の劣化が速かったので、1953年(昭和28年)上層階をそのままに下層階の鉄筋を取替え、コンクリートを打ち直して改築されました。

日給社宅

日給社宅とは、1918年(大正7年)に建設された鉱員社宅、16号棟から20号棟の通称です。

「日給社宅」という名前は、当時の鉱員が日給制だったことによります(職員は当時から月給制)。

30号棟に続いて建てられた、島内でもとくに古い住宅です。

同じ向きに並んだ各棟の西側(海側)が「防潮大廊下」と呼ばれる連絡通路でつながっていて、すべての階が一体となっています。

地下には店舗が、屋上には公園や農園がありました。

トイレは各棟の大廊下側に共同トイレが設置されていました。

日給住宅の特徴は、大廊下があったこともあって、戸外床面積の割合が約4割も占めていたことです。
(同時期の同潤会アパートや戦後の公団住宅では最大で2割ほど)

泉福寺(23号棟)

泉福寺は1921年(大正10年)に建設された2階建て木造建築で、1階が社宅、2階が寺です。

住職は禅宗でしたが、島唯一の寺としてすべての宗派を扱うため、「全宗」と称していました。

島でなくなった方は泉福寺に保管された後、火葬場と墓がある中ノ島に送られていました。

昭和館(50号棟)

昭和館(50号棟)は1927年(昭和2年)に建造された、アールデコ風の映画館。

軍艦島では福利厚生が重視され、映画が福岡から直送されていました。

長崎市内よりも早く封切られることから、映画を見るために島外から訪れる者もいたそうです。

演劇やコンサートなども行われていました。

炭鉱は24時間の3交代勤務で日中は暇な人も多いため非常ににぎわいましたが、テレビが普及してからは衰退し、成人向けのポルノ映画の上映が増えた後、1970年(昭和45年)に閉館しました。

端島炭坑は賃金が高いこともあって、テレビなど家電製品の普及が早く、狭い部屋の中にオーディオセットを備える家もあったそうです。

報国寮(65号棟)

報国寮(65号棟)は鉄筋コンクリート造の鉱員社宅で、軍艦島で最大のアパートです。

コの字型をしていて、最初に建設された北側の7階建て『報国寮』は、第二次世界大戦中にも関わらず建設が進められ1945年(昭和20年)に完成しました。

その後8階・9階部分を増築(1947年:昭和22年)、東側を9階建てで増築(1949年:昭和24年)、東側に10階部分(屋上保育園)を増築(1953年:昭和28年)、南側を10階建てで増築(1958年:昭和33年)と段階的に拡張しています。

最終的には317戸、総床面積16895.5平方メートル(屋上・地下含む)にもなりました。

計画時は北側の棟にエレベーターが設置される予定でしたが、中止になりそのスペースは住居に転用されました。

上層階には、1941年(昭和16年)完成の中央住宅(14号棟)で本格的に採用されたカンチレバー(張り出しベランダ)が設けられています。

基本的な部屋の構造は2K(6畳2間)。

4階と7階には緑道(山通り)への連絡通路が、地下1階には理容室があります。

1958年(昭和33年)に完成した南側の棟は「新65号」と呼ばれていました。

軍艦島では、もっとも高い建物は10階建てで、各戸に水洗式のトイレが完備されていました。
(北側・東側の棟は共同トイレ)

端島公園

端島公園は、コの字型の報告寮の内側にある、島内最大の公園です。

ブランコや滑り台などの遊具が多く、児童公園としては充実していました。

「はしまこうえん」と書かれた看板が目印でした。

公園ができる前は木造の社宅があったそうです。

塩降街

塩降街は57号棟から続く商店街の北の端で、59-66号棟と65棟の間にあります。

59-66号棟の上を超えて波が降りかかるので「塩降街」といわれていました。

地獄段

地獄段は59号棟・57号棟・16号棟の間にある階段です。

軍艦島随一の繁華街である端島銀座の正面にあります。

丘の上の端島神社までずっと続いており、登るのがとてもツライので「地獄段」と言われたそうです。

ここを登ると端島神社で、祭りの日はここを神輿が勇壮に駆け降りていました。

X階段

X階段は67号棟の階段です。

上下の移動と左右の移動を可能にするため、Xの字のような特徴的な形をしています。

ドルフィン桟橋

ドルフィン桟橋の初代は1954年(昭和29年)完成です。

ドルフィン桟橋完成以前は、連絡船は直接接岸できず、はしけ船に乗り換えて軍艦島に上陸していました。

現在使われている3代目は1962年(昭和37年)の完成です。

メガネ

メガネとは防波堤にある穴で、軍艦島で発生したゴミはここから捨てられていました。

遠くにある高島が、この穴から見ると近くに見えるので「メガネ」と言われています。

軍艦島の周辺の海はゴミの他にも糞尿などが垂れ流しで、衛生状態が非常に悪く、多くの人が気にせず泳いでいたので、感染症にかかる人も多くいました。

感染症にかかった人は、68号棟(隔離病棟)の世話に。

閉山直前の1973年(昭和48年)1月に、ゴミの廃棄中に女性が高波にさらわれる事故があり、ここからゴミを捨てることが禁止され、島内で焼却することになりました。

軍艦島では釣りを趣味とする人も多く、メガネは釣りスポットの一つ。

現在も軍艦島の各所は釣りスポットで、世界遺産に指定されてクルーズ船が就航する以前より、漁船をチャーターして上陸する釣り人もいました。

このあたりでチヌが良く釣れたそうです。

遊郭

遊郭は南部商店街に存在していました。

昔は遊郭の前に列をなしていたそうですが、遊女が常連と次第に顔なじみになり、公娼としての性質が失われ流行らなくなり、若い人は金をためて長崎まで行くことが多かったそうです。

1950年代に台風で消滅し、その跡地に31号棟が建てられました。

肥前端島灯台

岩山の南端、貯水槽の隣に灯台があります。

軍艦島が閉山し無人島となると、夜間は真っ暗闇となり、航行の障害になることから、1975年(昭和50年)に肥前端島灯台は建設されました。

現在建っているのは2代目で、1998年(平成10年)に建造された強化プラスチック製です。

軍艦島の歴史

端島炭坑の歴史区分は大まかに、

  1. 第一期・原始的採炭期(1810~1889年)
  2. 第二期・納屋制度期(1890~1914年)
  3. 第三期・産業報国期(1914~1945年)
  4. 第四期・復興・近代化期(1945~1964年)
  5. 第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)
  6. 第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年~)

に分けられます。

第一期・原始的採炭期(1810~1889年)

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明ですが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されています。

『天保国絵図』にも「端島」とあります。

  • 1810年(文化7年)
    軍艦島で石炭が発見されました。(発見者は不明)
    『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張しました。
    とくに幕府領の野母村・高浜村は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べています。
    当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようです。
    (『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)
    このように石炭発見の時期ははっきりしていませんが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業のかたわら「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度でした。
  • 1869年(明治2年)
    長崎の業者が採炭に着手しましたが、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、台風による被害のために廃業に追い込まれました
  • 1886年(明治19年)
    36メートルの竪坑が無事に完成しました。
    これが第一竪坑です。

第二期・納屋制度期(1890~1914年)

1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題になりましたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていました。

高島同様、軍艦島でも労働争議がたびたび起こっています。

納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通りです。

三菱端島労働状況(1907(M40)3~8月ごろ) 日本労務管理年誌・労務管理資料編纂会 S37~S39
  1. 坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る。
    炭坑を楽園のごとく吹聴し、世人を欺瞞。
  2. 坑夫は何れも故郷忘れがたく、募集人の舌端に欺されたるを悔いている。
  3. 会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励。
  4. 坑夫はあわれこの陥穽に陥入り、前借の弱身に自由を縛し去られている。

軍艦島における納屋制度の廃止は高島よりも遅かったのですが、段階的に廃止され、すべての労働者は三菱の直轄となりました。

  • 1890年(明治23年)
    端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡しました。
    軍艦島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となります。
  • 1891年(明治24年)
    社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともない飲料水の供給が開始されます。
  • 1897年(明治30年)
    譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長しました。
  • 1893年(明治26年)
    三菱社立の尋常小学校の設立など、基本的な居住環境が整備されました。
  • 1897年(明治30年)~1931年(昭和6年)の間に、島の周囲が段階的に埋め立てられました。

第三期・産業報国期(1914~1945年)

この時期の軍艦島の生活は極めて劣悪でした。

高浜村端島支所に残された1939年~1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、この時期の軍艦島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人で、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が亡くなっています。

死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の軍艦島の推定人口が3333人なので、住人の40%近くが死んでいる計算になります。

  • 1916年(大正5年)
    納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設されました。
    この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道し、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいます。
    「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられています。
    ただしこのころはまだ、鉄筋コンクリート造の高層アパートはグラバーハウスと日給社宅のみで、大半は木造の平屋か2階建てでした。
    RC造のグラバーハウスが完成し、世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止されました。
    この年以降から少年および婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始されます。
  • 1930年(昭和5年)
    直営合宿所が完成します。
    それ以降、単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止されます。
  • 1937年(昭和12年)
    労働者のための福利厚生がすごい勢いで整えられ、教育、医療保険、商業娯楽等のレベルの高い施設が整備されました。
    一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない。」との言葉が残されました。
  • 1939年(昭和14年)
    この年からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられました。
    坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34名を出しました。
  • 1941年(昭和16年)
    ついに軍艦島から納屋制度が全廃されます。
    しかし代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も、劣悪でした。
    たとえばグラバーハウスは、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居が口の字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くありませんでした。
    一方で後に建設された坑外夫向けの16号~20号棟は、6畳+4.5畳というやや広めの間取りで、軍艦島での坑内夫と坑外夫の差別がそのままRC化されていました。
    この年から始まった「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎え、約41万トンを出炭(軍艦島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2062トンを出炭するまでになりました。
    端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。
  • 1943年(昭和18年)
    この年から中国人捕虜の強制労働が開始されました。
    朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は軍艦島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたといわれています。
    戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の中国人労働者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定しました。
  • 1945年(昭和20年)
    6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈しました。
    このことは「米軍が軍艦島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」といううわさ話になりました。
    高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没します。
    (報国寮が完成し、北棟の防空用偽装塗装にこの時期の記憶が残っています。)

第四期・復興・近代化期(1945~1964年)

終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減します。

なお1945年当時の軍艦島の人口データは終戦の混乱期だったため、国勢調査のデータで1656人、高島町端島支所のデータで4022人と大きな乖離があり、あまりあてになりません。

この時期には設備の近代化と同時に、労使関係の近代化が行われました。

  • 1945年(昭和20年)
    10月の石炭生産緊急対策要綱による復興資金の供給が開始されます。
  • 1946年(昭和21年)
    端島炭鉱労働組合が結成され、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えます。
    賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えました。
    遊び場にブランコも設置され、住みやすくなります。
  • 1948年(昭和23年)
    GHQによって輸入砂糖の出炭奨励特配が行われ、また復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加します。
    同時に住宅不足が深刻化します。
  • 1951年(昭和26年)
    坑内でガス突出事故が発生しています。
  • 1957年(昭和32年)
    海底水道開通で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善します。
    島内には3つの共同浴場が存在し、職員風呂と坑員風呂の区別がありましたが、これも労働組合結成直後に起こった差別撤廃闘争で解消。
    戦前からあった職員と坑員の差別は戦後から閉山期にかけて段階的に解消されていきます。
    しかし住宅問題は労使のタブーで、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の坑員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれるという区分は労働組合に黙認されていました。
    住宅規模は住人の家族数にはあまり考慮されず、勤続年数や職階など住人のランクに応じたものがあてがわれていました。
    住宅に関しては歴然とした階級社会でした。
    海が荒れると潮が建物を乗り越えて上から降る「塩降街」の狭い坑員合宿で単身坑夫らは共同生活をしていました。
    砿長の自宅(5号棟)は波のかからない高台の一軒家にあり、すべての一般坑員が3つの浴場を共同で利用している一方で、砿長の自宅は個人用の風呂でした。
    (1952年当時の軍艦島における風呂の数は、砿長の自宅の風呂、上級職員・来客向けのクラブハウス(7号棟)の風呂、一般坑員・職員向けの共同風呂が3か所の計5か所)
    また会社の立場からは、稼働率の低さ、労働者の流動性の高さ、出炭量の低さが問題となりました。
    労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、戦時中と比べて人口が急激に増加したにもかかわらず、石炭の生産量は大きくダウンしています。
    「食ったり遊んだりする分しか働かない単身者ではなく、家族持ちを多く採用する。」「掛売制(商品の代金を後払いとすることで、代金を払いきるまで半永久的に島外に出られなくする納屋制度期の手法)の採用。」「設備の機械化による合理化。」などの対策が提案されましたが、労働組合との関係もあり、この時期はあまりうまくいかなかったようです。
  • 1960年(昭和35年)
    人口が最盛期を迎え人口は5,267人で、人口密度は83600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達します。
    炭鉱施設・住宅の他、高浜村役場端島支所(後に高島町端島支所)・小中学校・店舗・病院・寺院の「泉福寺」・映画館の「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していました。
    ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内に無く、これらは軍艦島と高島の間にある中ノ島に建設されました。

第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)

1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退していきます。

片寄俊秀さんは、「職住近接」「シビル・ミニマム充足」「住宅問題解消」の3つの実現をもって、この時期の軍艦島を「理想郷」とも評しています。

しかし最終的に鉱山は閉山となり、少しの退職金を手に全国に散らばった老齢の元坑員の再就職の苦労という現実も取材していることから、「軍艦島において外見的に実現していた『理想郷』そのものが、真に人間が要求するものではなかったことを証明しているのではないか」とやや批判的な見方もしていました。

いずれにせよ同時期の殺伐とした本土とは、まったくかけ離れた社会であるこの時期の軍艦島も、日本の一部であり、日本の一つの尺度とみています。

  • 1964年(昭和39年)
    九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、炭鉱の規模が縮小されます。
    これ以降人口が急速に減少していきます。
  • 1965年(昭和40年)
    三ツ瀬区域の新坑が開発されて軍艦島は一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準となります。
    さらに空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善しました。
    この時期の軍艦島の住民にアンケート調査を行った長崎造船大学の片寄俊秀によると、住民の充足度も高く、この時期の軍艦島は福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、すべてが狭い所で完結している「シビル・ミニマムの完全充足期」と評されています。
  • 1974年(昭和49年)
    1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、数百万トンの石炭を残したまま1月15日に閉山します。
    閉山時に約2000人まで減っていた住民は4月20日までにすべて島を離れます。
    連絡船の「最終便」で退去した総務課のN氏、軍艦島の最後を見届けるために乗船していた研究者の片寄俊秀さん、片寄俊秀の友達である作家の小松左京さん、そして阿久井喜孝さんらの離島をもって軍艦島は無人島となりました。
    しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続きました。

第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年~)

閉山前より西山夘三さんや、片寄俊秀さんをはじめとする西山研究室の人々によって、主に「住まい」の方面からの調査が行われていました。

しかし島全体が三菱の私有地なので、部外者に対しては「外勤」と呼ばれる監視が付き、調査を行う西山研究室の人々の後を総務課のN氏が密かに付けているなど会社に常に監視されてお、り調査は限定的にならざるを得ませんでした。

また住人らは、戦時中の「闇」の部分を語ろうとはしませんでした。

長崎造船大学の教授として、京大の西山夘三さんに代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて軍艦島の生活を詳細に調べ上げたのが片寄俊秀さんです。

軍艦島の充足した生活という「光」の部分だけでなく、戦時中の「圧制ヤマ」と呼ばれる奴隷労働や中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった「闇」の部分も明らかにし、論文『軍艦島の生活環境』(1974年)としてまとめ上げ、雑誌『住宅』(日本住宅協会1974年5月号-7月号)に掲載されました。

しかし「これ以上暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい」という元住民のまなざしと板挟みとなり、片寄俊秀さんは研究を中断します。

閉山後より阿久井喜孝の調査によって、建築の方面からも光が当てられました。
(軍艦島の建築には鉱山の技術が使われていることが明らかにされた)

また高浜村端島支所の跡地から戦時中の日本人・中国人・朝鮮人の死亡者が記された『火葬認可証付申請書』が発見され、林えいだいさんの調査によって、端島炭坑の「闇」の部分にも光が当てられるようになりました。

戦時中の軍艦島の朝鮮人坑夫の足取りに関しては、1992年に『死者への手紙―海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち』としてまとめられています。

奴隷労働があったとする片寄俊秀さんは、この調査に対して「その努力を決して無駄にしてはならないと思う」としています。

  • 2000年代
    このころより、近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されはじめます。
    廃墟ブームの一環で、しばしば話題に上るようになりました。
    無人化以来、建物の崩壊が進んでいます。
    ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われています。
  • 2001年(平成13年)
    軍艦島は三菱マテリアルが所有していましたが、高島町(当時)に無償譲渡されます。
  • 2005年(平成17年)
    高島町が長崎市に編入されたことにともない、所有権は長崎市に継承されます。
    建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立入りは長らく禁止されていました。
    8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介されました。
  • 2006年(平成18年)
    一部で世界遺産への登録運動が行われ、8月には経済産業省が軍艦島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援すると決定しました。
  • 2008年(平成20年)
    島内の建築物はまだ整備されていないところが多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立入りの制限に関する条例」が成立します。
    9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まります。
  • 2009年(平成21年)
    1月に世界遺産暫定リストに追加記載されます。
    4月22日から島の南部に整備された見学通路に限り観光客が上陸・見学できるようになりました(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止)。
    解禁後の1か月で4,601人が軍艦島に上陸しました。
    その後も、半年間で34,445人、1年間で59,000人、3年間で275,000人と好調です。
    上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件で、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいます。
    軍艦島上陸ツアーによる経済波及効果は65億円に上ります。
    この年より長崎大学インフラ長寿命化センターは軍艦島の3Dによる記録・保存管理に取り組みはじめ、2014年には長崎市の委託を受けて3Dレーザースキャナ・全方位カメラ・無人航空機 (ドローン)、水中ソナーなどを用いて、全島の3次元データでの記録化を行いました。
  • 2013年(平成25年)
    6月28日に長崎市の協力のもと、立入禁止区域や屋内を含む、島内全域を撮影した軍艦島のGoogle ストリートビューが公開されました。
  • 2014年(平成26年)
    10月6日に軍艦島は国史跡として文化財指定されます。
    軍艦島を国の文化財に指定する動きは、2013年11月5日の参議院内閣委員会で秋野公造参議院議員が、まだ国の文化財ではなかった軍艦島に国の財政支援を求める質疑を行いました。
    そして国が、必要な予算の確保に努める意向を示したことで、2014年1月に長崎市は文化財指定に向けて意見具申を行いました。
    2014年6月20日に文化審議会が軍艦島を含む3つの炭坑跡で構成される「高島炭鉱跡」を史跡に指定するよう文部科学大臣に答申して、これで軍艦島が世界遺産登録へ向けて、非稼働遺産に必要な要件である国の文化的価値づけが明確になります。
  • 2015年(平成27年)
    3月31日に韓国政府が軍艦島の世界遺産登録に反対を表明します。
    朴槿恵元大統領・尹炳世外交部長官が陣頭指揮を執り、ユネスコや国際記念物遺跡会議、世界遺産委員国などに軍艦島を世界遺産登録として認めないように外交活動を行って、日韓の外交問題となります。
    6月28日~7月8日に、ドイツのボンで行われた、第39回ユネスコ世界遺産委員会で、世界文化遺産に決定・登録されました。

まとめ

軍艦島(端島炭坑)は、世界文化遺産に決定登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の中の一つです。

以前は立入が許されていませんでしたが、世界遺産に登録され、非日常的な光景を見ることができるということで、今では毎日のように観光客が上陸をはたしています。

しかし世界でもっとも栄えた炭坑が廃墟と化した姿は、今の私たちの生活を築き上げた後の抜け殻のように感じます。

上陸するためにはクルーズツアーを利用するしかありませんが、感謝の気持ちをもって訪れてみてはいかがでしょうか。

国内航空券エアーズゲート

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