石見銀山【世界文化遺産】世界に名を知られた銀鉱山王国を歩く

石見銀山(いわみぎんざん)は産業遺産として日本ではじめて世界文化遺産に登録された鉱山遺跡です。

ノミの音さえ聞こえてきそうな薄明りの坑道、周囲の鉱山町、温泉街には”銀遺産”の往時の繁栄が色濃く漂っています。

完全な形で残されてる間歩に坑夫たちの息遣いを感じる

石見銀山には600ほどの間歩(坑道のこと)があります。

そのなかで唯一、公開されているのが「龍源寺間歩」です。

ほのかな灯りに映し出された空間は、凛とした空気が支配する世界です。

立って歩けるほどの広さで、壁面や天井には無数のノミで刻んだ跡があり、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道や上下方向に延びる斜坑もあります。

排水用の坑道である永久抗へ降りるための垂直の縦抗の穴は、奈落の底を思わせます。

縦抗を100メートルほど降りたところの本坑道のような坑道が500くらいありましたが、ずっと下の坑道には水が溜まって降りれなかったそうです。

それほど深かったということです。

また、2008年から公開された「大久保間歩」は最大規模の坑道です。

入口に近づくと、坑道から吹き出す冷気に包まれます。

内部は仰ぎ見るほどに高く、切り立った岩盤には幾つもの穴が掘られています。

岩に銀山は、鎌倉末期の延慶2(1309)年に発見され、本格的な開発がはじまったのは16世紀初頭です。

江戸時代の初期には年間1万貫(約38トン)を産出したという記録もあります。

実は、石見銀山の隆盛にはポルトガル人が深く関わっていました。

16世紀末、スペインとポルトガルが世界の覇権を争った大航海時代のこと。

最初に詳細な日本見聞録を残したのはスペイン人で、1542、3年ごろ、「この国の財貨は銀で、住民はそれを小さな板銀として保持している」と記しています。

しかし、実際に石見銀山の銀を采配したのはポルトガル人でした。

1580年、スペインによってポルトガルは滅ぼされ、北東アジアにいたポルトガル人たちはみな日本に集まってきました。

生きるすべとして彼らが選んだのは、日本の銀を中国に輸出し、中国から絹や香木などを輸入して日本で売りさばき、その利益で自活する道でした。

その結果として、岩見銀山を中心とする産銀量は飛躍的に増大し、全世界の3分の1をまかなったといわれるまでになったのです。

銀山の管理運営と物資の集散地、大森町にいぶし銀の佇まいを見る

銀山から算出された銀鉱石は、2つの銀山街道を通って運ばれました。

鞆ヶ浦港へと続く全長約7キロメートルの「鞆ヶ浦街道」は、16世紀初頭に石見銀山を再開発した際、仁摩町の鞆ヶ浦まで銀鉱石を運んだ道です。

一方、沖泊港へ向かう全長約12キロメートルの「温泉津沖街道」は、毛利家が石見の国を平定した後、銀積出し港を鞆ヶ浦から温泉津・沖泊に移し整備した道です。

主に16世紀後半以降に利用されたものだといわれています。

石見銀山を直轄領とした徳川幕府は、採掘から精錬までの銀の生産活動が一貫して行われた地域に柵を巡らし、柵内と柵外を区分しました。

それが現在の「銀山柵内」で、東西2.2キロメートル、南北2.5キロメートル、面積は約300ヘクタールにおよぶといわれます。

その銀山柵内に接して佇むのが、銀山の管理運営と物資の集散地であり、石見銀山御料約4万8000石の政治・経済の中心として大きく栄えた大森町です。

とくに、代官所跡から南へ約1キロメートルにわたって続く街並みは、銀山経営の中枢なったところです。

その街道沿いには、代官所へ出仕した地役人宅や商いで賑わった町屋、公事宿をつとめた郷宿などが軒を並べて残されています。

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された町並みを歩きながら、岩見鉱山ガイドの会の和上豊子さんがこう語ってくれた。

「一般的に、武家屋敷は街道に面して門や土塀、庭などを設け建物は敷地奥に建てられています。それに比べ、町屋は街道に面して並べるものです。でも、大森町は身分や職種による町割りがなされていません。武家屋敷と町屋が混在しているんですね。」

それが大森町の変化に富んだ景観を生み出しているのでしょう。

しかも、周囲の自然に包み込まれるようにひっそりと残されているのがいいです。

そのなかでも、目を引くのが、町役人や代官所のご用達商人を務めた、大森で最大の商家建築を誇る熊谷家住宅(重要文化財)です。

現在の建物は、1800年の大火後に再建されたものですが、屋敷構えの変遷の様子や生活ぶりがうかがえる貴重な貴重な商家建築でもあります。

地下蔵を備えた居間や蔵前座敷などがあり、熊谷家の人々の暮らしぶりを身近に感じることができるつくりとなっています。

また、街道の一角には、銀細工の工芸品の店「銀の店」があります。

経営者の宇都宮弘子さんに銀の魅力について聞くと、

「仕上げの仕方によっていろいろな表情を見せるのが銀であり、磨けば磨くほど光り輝くのが銀製品です。金属のなかでもっとも美しいとされるされているんですよ。」

その、いぶし銀の輝きをたたえた工芸品を手にしながら、薄暗い坑道の中で働き続けた坑夫たちの姿に思いを馳せます。

銀細工の工芸品が、さらに素晴らしいものに思えてくる瞬間でもあります。

オール5の最高評価を得た、薬師湯で至福のひとときを味わう

温泉津町は大森町とともに国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

銀山への資材の搬入港として、また銀の積出し港として大いに栄えました。

後年は、北前船の寄港地でもあったといいます。

その温泉津の中心が、温泉津温泉です。

郷愁の念が込み上げてくるような、昔懐かしい佇まいが並びます。

共同浴場は2つあります。

その一つが「薬師湯」です。

「湯は昔から湧いていましたが、明治5年の浜田大地震によって新たに温泉が噴出しました。だから”震湯”とも呼びます。」

と、女将の内藤陽子さん。

その薬効を求めて次から次へと客がやってきます。

「天然温泉の審査を行う日本温泉協会から『オール5』という最高評価を下していただきました。全国にわずか12ヶ所しかオール5の温泉はなく、中国・四国地方では薬師湯だけです。」

大正浪漫を漂わす番台を通り、しばし湯に浸かって、ほてった体をさましに2階へ上がれば和風の休憩室がしつらえられてします。

この欄干からは鄙びた温泉街の風情が見渡せます。

内藤さんが言った。

「石州瓦と呼ばれる、独特の赤瓦と渋い光沢の黒瓦が織りなす甍の眺めは素晴らしいですよ。しかも路地を歩けば、それぞれの通りが違った風情で出迎えてくれます。湯に浸かった後、お客様は路地を歩いて散策されますが、それは温泉津の最高のもてなしでもあると思います。」

薬師湯は朝5時から営業を始めます。

一番客になろうと早起きしたのですが、すでに先客が3人もいました。しばし、肩を並べてゆったり朝ぶろを満喫したのでした。

にぎわいの余韻に浸る元湯での贅沢な時間

温泉津温泉にある宿は全部で14軒です。

そのうち内湯を備えているのは9軒です。

室町以来19台続く長命館の「元湯泉薬湯」が、温泉津でもっとも古い湯です。

しかも道を隔てて建つ、鄙びた木造3階建ての宿「長命館」の外湯でもあります。

長命館と元湯の主である伊藤昇介さんは、温泉津についてこう語りました。

「町の地割りは急傾斜の山肌を背景にしていて、狭い谷筋に沿って山裾を削ったわずかな土地に町並みが続きます。とくに温泉街は、木造3階建ての旅館など大正時代から昭和初期の建築物が肩寄せ合って軒を並べています。その風情は、昔も今も変わりません。」

大正時代にタイムスリップしたかのような、長命館の佇まいがいいです。

早朝5時半、宿の向かいにある元湯から賑やかな音が聞こえてきました。

元湯が開いたのです。

下駄をつっ掛け、出かけていくと、熱い湯とぬるい湯、座り湯の3つに分けられた茶褐色の浴槽がありました。

長い年月をかけ湯の花で独特の色合いになったそうです。

ぬるい湯に顎まで浸かれば、温泉の薬効が体に染みます。

「発見されてから1300年の歴史を誇る温泉です。しかも源泉からの距離はわずか2~3メートルで自然噴出しています。温泉にも鮮度が第一だと私は思っているんです。にぎわいの余韻を楽しんでいただきたい。」

まとめ

世界産業遺産に石見銀山は選ばれていますが、一人旅をするならその周辺の街並みを散策してみるのがオススメです。

約1キロにわたって武家屋敷や商家、社寺が混在する様はまさにいぶし銀です。

また、オール5という日本で12ヶ所しかない最高ランクの温泉も、心と体を癒すには最適です。