世界文化遺産【法隆寺】特徴とその魅力 肌で感じる歴史という空気

法隆寺の歴史

創建

法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和と河内とを結ぶ交通の要衝でした。

付近には藤ノ木古墳をはじめとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在していて、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせます。

「日本書紀」によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は601年(推古9年)飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手し、605年(推古13年)に斑鳩宮に移り住んだといわれています。

法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地です。

この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺です。

明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていました。

しかし「日本書紀」には、670年(天智9年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が1887年(明治20年)頃から出されるようになりました(菅政友・黒川真頼・小杉榲邨ら)。
これに対し「書紀」の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもいて(平子鐸嶺、関野貞ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続きます。

石田茂作らによる1939年(昭和14年)の旧伽藍(いわゆる若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれました。

現存の西院伽藍については、693年(持統7年)に法隆寺で仁王会が行われている(「法隆寺資財帳」)ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられます。

同じく「資財帳」によれば、711年(和銅4年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられます。

現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡で、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説となりました。

また1939年(昭和14年)東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されました。

「日本仏教の祖」としての聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がされていて、「書紀」などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もあります。

ただしこうした聖徳太子非実在論に対しては、根強い反論もあります。

また聖徳太子非実在論説を唱える大山誠一も、厩戸皇子という皇族の存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していません。

金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には
「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて607年(推古天皇15年)、像と寺を完成した」
という趣旨の記述があります。

しかし正史の「日本書紀」には、法隆寺の創建については何も書かれていません。

前述の金堂薬師如来像については、1933年(昭和8年)、福山敏男により、

  • 像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の製作は7世紀後半に下るとみられる
  • 607年当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視される
  • 銘文中の用語に疑問がもたれる

という疑問が提出されました。

この説はおおむね支持を得ていて、薬師像は文字通り607年まで遡る製作とは見なされていません。

また金堂の中央に安置される本尊は
「623年に聖徳太子の冥福のため止利が造った」
という内容の光背銘をもつ釈迦三尊像で、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審です。

643年(皇極天皇2年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失しましたが、この時法隆寺は無事だったと考えられています。

なお八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、738年(天平10年)ごろ、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子をしのんで建立したものです。

中世以後

聖徳太子の弟来目皇子の子孫と伝えられる登美氏の支配下に置かれていましたが、平安時代初頭には登美氏からの自立への動きが強まります。

この過程で法隆寺側と登美氏との間で発生したのが、善愷訴訟事件です。

925年(延長3年)には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の990年(正暦元年)のことです。

以後、1435年(永享7年)に南大門が焼失するなど何度かの火災に遭ってはいますが、全山を焼失するような大火災には遭ってなくて、建築や仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えています。

近世に入って、慶長年間(17世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄~宝永年間(17世紀末~18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われました。

近代に入ると廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となり、1878年(明治11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜されました。

これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されています。

1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われました。

「昭和の大修理」は第二次世界大戦をはさんで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)にいたってようやく完成記念法要が行われました。

この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損しています。

このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られていることです。

昭和の大修理の際に裏山に築堤(ちくてい)して貯水池を建設、そこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設しました。

1949年(昭和24年)金堂火災の際、初期消火に活用されました。

1950年(昭和25年)に法相宗から独立しています。

1981年(昭和56年)からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見がありました。

調査の成果は「法隆寺の至宝-昭和資財帳」として小学館から刊行されています。

再建・非再建論争

明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていました。

しかし歴史学や建築史学の進歩とともに、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が1887年(明治20年)頃から出されるようになりました。

【非再建論の主張】

  • (様式論)法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。(関野貞)
  • (尺度論)薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。(関野貞)
  • (干支一運錯簡論)日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、干支が一巡する60年前の火災の記事(「聖徳太子伝補闕記」所収)を誤って伝えたものであろう。(平子鐸嶺)

【再建論の主張】

  • 「聖徳太子伝補闕記」には荒唐無稽な記述が多く、これをもって「日本書紀」の記述を否定することはできない。(喜田貞吉)
  • 再建時に元の礎石を再使用すれば古い尺度が使われることになるので、高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない。(喜田貞吉)

「日本書紀」670年(天智9年)4月30日条には「夜半之後 災法隆寺 一屋無余」(夜半之後(あかつき)法隆寺に災(ひつ)けり一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)との記述があり、これを信じるなら法隆寺の伽藍は670年に一度焼失し、現存する西院伽藍はそれ以後の再建ということになります。

最初に再建論を唱えたのは旧水戸藩士で歴史家の菅政友とされ、黒川真頼(国学者)、小杉榲邨(国学者)も明治20年代に再建論を唱えています。

一方「書紀」の当該記述は信用できないとして、現存する西院伽藍は推古朝のもので、焼けてはいないとの主張(非再建論)が関野貞(建築史家)と平子鐸嶺(美術史家)により、1905年(明治38年)に相次いで発表されました。

建築史の研究者である関野は、建築様式や建築に用いた尺度などの観点から、西院伽藍は推古朝のものであるとしています。

関野によると、法隆寺西院伽藍の建築には、古い尺度である高麗尺が使用されていますが、645年(大化元年)を境として以後は唐尺が使用されるようになりました。

したがって西院伽藍は、大化以前のものでなければならないとする、「干支一運錯簡説」を平子は唱えました。

「書紀」は干支による紀年法を採用していますが、干支は60年で一巡するため、「書紀」の法隆寺火災の記事は実年代から60年ずれているとする説です。

「聖徳太子伝補闕記」(ふけつき)という書物に「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」という記載がありますが、平子はこの「庚午」を西暦670年ではなく聖徳太子在世中の610年のことであるとし、「書紀」の編者は610年(推古天皇18年)の庚午年に起きた火災の話を、誤って60年後の670年(天智9年)の庚午年の条に入れてしまったと主張しています。

また610年の火災は小規模なもので、現存する西院伽藍は推古朝から焼けていないと主張しました。

これにただちに反論したのが歴史家の喜田貞吉です。

喜田は、焼失した伽藍がもとの礎石を用いて再建されたのなら、尺度も古い高麗尺が使われているのは当然だとして関野説を批判しました。

平子説については、「補闕記」には信用できない記述が多く、これをもって「書紀」の670年法隆寺火災の記事を否定することはできないとして、これをもしりぞけます。

こうした再建論者・非再建論者の論争(法隆寺再建非再建論争)は昭和期まで続きました。

昭和期になると、関野貞、足立康らが「二寺説」あるいは「新非再建論」と呼ばれる新説を唱えています。

関野は従来の自説を改め、「二寺説」を発表します。

法隆寺の境内、現・西院伽藍の南東に位置する空地には「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれる場所があり、塔跡の古い礎石が残されていました。

関野は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする伽藍(西院伽藍)と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする伽藍(若草伽藍)とは別の寺であり、670年に焼けたのは後者であるとしました。

二寺説は、古くは北畠治房(法隆寺村出身のもと天誅組志士)という人物が唱えていましたが、論文として公刊されたものでなかったため、一般には知られていませんでした。

足立康の「新非再建論」(1939年)は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする仮称「用明寺」と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする釈迦如来を安置する仮称「太子寺」とがあり、670年に焼けたのは前者であるとされています。

後に足立は、2つの寺院が対立していたのではなく、一つの法隆寺の中に釈迦像をまつる「釈迦堂」があって、その後身が現・西院伽藍であるとしています。

1939年(昭和14年)に、石田茂作らによって若草伽藍跡の発掘調査が行われました。

その結果この伽藍は現存する西院伽藍(塔と金堂が東西に並ぶ)とは異なり、南に塔、北に金堂が南北方向に配置される「四天王寺式伽藍配置」であること、堂塔が真南に面してなくて伽藍配置の中心軸が北西方向へ20度ずれていることがわかりました。

一方現存する西院伽藍の堂塔は、南を正面とすると、伽藍の中心軸はほぼ地図上の南北に一致しています(正確には北東方向へ3度ずれている)。
したがって仮に「若草寺」と「法隆寺」の2寺が同時に存在していたとすると、中心軸の方角が大きく異なる伽藍が近接して建っていたことになり不自然です。

また若草伽藍跡から出土した瓦は、単弁蓮華文の軒丸瓦と手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を組み合わせた、古い様式のものでした。

こうしたことから、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということが定説となりました。

「資財帳」によれば693年(持統天皇7年)法隆寺にて仁王会が行われ、天蓋等が施入されていることから、現・西院伽藍のうち、少なくとも金堂はこの年までには建立されていたとみられています。

同じく「資財帳」によれば711年(和銅4年)には五重塔初層安置の塑像群と、中門安置の金剛力士(仁王)像が完成していて、同年頃までには五重塔、中門を含めた西院伽藍が建立されていたとみられています。

以上のように、「再建非再建論争」に関しては再建論に軍配が上がった形です。

ただし、

  • 創建法隆寺の焼失は「書紀」のいう670年であったのか否か
  • 643年(皇極天皇2年)の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのか
  • 現存の西院伽藍が創建法隆寺とは別の位置に建てられ、建物の方位も異なっているのはなぜか
    (旧伽藍(若草伽藍)は、現存の西院伽藍の位置ではなく、かなり南東寄りに位置していました。また現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜しています)
  • 金堂、五重塔などの正確な建立年はいつか
  • 現、西院金堂安置の釈迦三尊像と薬師如来像は本来どこに安置されていたのか

など、未解明の謎はまだ残っています。

今現在の西院伽藍がある土地は、かつて存在した尾根を削り、両側の谷を埋めて整地した後に建てられたことがわかっていますが、なぜそのような大規模な土木工事をしてまで伽藍の位置を移したのかも謎です。

非再建論の主な論拠は建築史上の様式論で、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にありました。

一方再建論の論拠は文献で、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張しています。

論争は長期におよび、なかなか決着を見ませんでしたが1939年(昭和14年)石田茂作によって聖徳太子当時のものであると考えられる前身の伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことで、再建であることがほぼ確定しました。

また「昭和の大修理」で明らかになった新事実(現在の法隆寺に礎石が転用されたものであること、金堂天井に残されていた落書きの様式など)もそれを裏付けています。

2004年12月、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表されました。

この破片は1000度以上の高温にさらされていて、建物の内部にあった壁画さえも焼けた大規模な火事であったと推察されます。

壁とともに出土した焼けた瓦は7世紀初頭の飛鳥様式で、壁画の様式も線の描き方が現法隆寺のものより古風です。

出土した場所は、当時深さ約 3メートルほどの谷だったところで、焼け残ったガレキとしてここに捨てられたと見られています。

実際に焼失を裏づける考古遺物が多数発見されました。

最近の研究

2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影しました。

その画像から割り出した結果、建立した年の年輪年代測定を発表します。

それによると法隆寺金堂や五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられました。

問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることです。

伐採年が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものですが、これについては若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在します。

なお五重塔の心柱の用材は、年輪年代測定によって確認できる、もっとも外側の年輪が594年のもので、この年が伐採年にきわめて近いと発表されています。

他の部材に比べてなぜ心柱材のみがとくに古いのかという疑問が残りました。

心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられています。

また川端俊一郎は、法隆寺の物差しは高麗尺ではなく、中国南朝尺の「材」であるとしています。

近代以降

  • 1878年(明治11年)
    300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜されました。
    これがいわゆる「法隆寺献納宝物」で、第二次大戦後は大部分が東京国立博物館の所蔵となり、ごく一部が皇室御物および宮内庁保管となっています。
  • 1882年(明治15年)
    法相宗に転じます。
  • 1884年(明治17年)
    フェノロサ、岡倉覚三(天心)らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉されたといいます(異説もある)。
  • 1903年(明治36年)
    佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興します。
  • 1934年(昭和9年)
    「昭和の大修理」が開始。
  • 1939年(昭和14年)
    「若草伽藍」発掘。
  • 1944年(昭和19年)
    爆撃から守るため、解体していた部材を安堵村(現安堵町)などに疎開させます。
  • 1947年(昭和22年)
    復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見。
  • 1949年(昭和24年)
    金堂壁画を火災で焼損。
  • 1950年(昭和25年)
    法相宗を離脱し、聖徳宗を開きます。
  • 1985年(昭和60年)
    昭和の大修理完成。
  • 1993年(平成5年)
    12月9日 ユネスコの世界遺産に登録。
  • 2013年(平成25年)
    12月9日、大規模自然災害時には寺を緊急避難場所に開放する協定を斑鳩町と締結します。
    境内の南大門前広場や聖徳会館を避難場所として提供します。
  • 2015年(平成27年)
    11月11日、1949年の火災で焼失した金堂壁画について、文化庁などと共同で総合的な科学調査を実施すると発表。

「隠された十字架」を巡る論争

1972年(昭和47年)に梅原猛が発表した論考「隠された十字架」は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないかとの説を主張しました。

しかし歴史学の研究者のあいだでは、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、おおむね梅原説には批判的でした。

梅原は夢殿本尊の救世観音には背中がなく体は空洞であるとした上で、この像は
「前面からは人間に見えるが、実は人間ではない」
「人間としての太子でなく、怨霊としての太子を表現」
したものだとしました。

しかしこれは事実誤認で、実際には救世観音像は丸彫り像で、背中の部分も造形されています。

これはアーネスト・フェノロサの「東亜美術史綱」中の救世観音にかかわる記述に「背後は中空なり」とあって、フェノロサの誤記をそのまま引き継いだための誤解であろうと指摘されています。

また梅原は救世観音の光背が
「直接、太い大きな釘で仏像の頭の真後ろにうちつけられている」
としたうえで、
「釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである」
としました。

実際は、救世観音の後頭部にあるのは「太い釘」ではなく、単なる光背取付け用の金具です。

このように仏像の後頭部に設けた金具や枘によって光背を固定している例は、法隆寺金堂四天王像、法隆寺献納宝物の四十八体仏(東京国立博物館蔵)などに例がみられ、「呪詛の行為」等の解釈は当たりません。

梅原の「隠された十字架」の所説は基本的な事実誤認にもとづいて推論を重ねている部分が多いため、美術史家からは厳しい評価を受けていて、ほとんどの美術史家はあえて正面から反論しませんでした。

とはいえ本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸凉子は本書に直接のインスピレーションを得て「日出処の天子」を発表したそうです。

また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じのためであるという梅原の説を退けています。

しかし梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トゥアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげるために考案されたもので先行する百済大寺(武澤は吉備池廃寺を百済大寺に比定して論を展開している)や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じています。

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